モデルナと開会式とクラクフ

7月23日に新型コロナのモデルナワクチンを一発打ち込んだ。

自治体のワクチン予約はすぐにいっぱいになるが、仕事で大量の人々と接しなければならず、罹患すれば5年越しの公演はキャンセルになるこの状態でワクチンを打たないのは末恐ろしい。結局、職域摂取の余りが運良く回り、打つことができた。

綺麗な会場にシステマチックな動き。待機時間を含め30分くらいで終わった。

3時間後くらいから酷い痛みと吐き気に襲われているとTOKYO2020の開会式が始まった。

怖いもの見たさで見ると、一貫性のないよく分からない日本の祭りのようなものが始まり会議のコンペのD案を基に変更に変更と代理店の中抜きを重ねるとこんなプロットが出来るんだろうなと思う。ワクチンを打ち込んだから意地悪な気持ちになっているのかもしれないと思うが、私という人間は体育の内申点は万年2、スポーツ番組と体育会系ホモサピエンスを憎み早幾年だ。開会式にはアートやエンタメを感じるので開会式だけは見ていた。ソチオリンピックラフマニノフの3番が流れた開会式は本当に素敵だったのに自国開催でこれはあんまりだった。海外ウケを意識した結果日本の芸術や文化に対する敬意があまり感じられない。勿論、この国に芸術や文化に対する敬意があったら、の話だが。

解熱剤を飲み、翌日発熱を感じたものの24時間後には収まったくらいで1回目は終わった。

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職場にポーランド人がいて、私は彼女のことが結構好きなのだが彼女も私のことをまあまあ好きらしい。ヨーロッパ人とは思えぬほどシャイで、いつも不機嫌そうだが(彼女にシャイと言うと違うと言い返す所もかなり好きだ)、人をよく観察しており、日本に来て2年なのに日本語が著しく上達しているし、私にしてくる質問がユーモラスで面白く聡明だ。

ゴマをする人間がこの世で1番嫌いだが困ったことに日本人の9割はゴマをすってすりまくるので最悪だ。ゴマをすられるのも大嫌いなので職場の後輩がおべんちゃらをしてきた時に「そういうことをしても私は喜ばないよ」と言うとオフィスが静まり返った。

ポーランド人の彼女の素晴らしい所は絶対にゴマをすらない所だ。どんな人にも態度が同じ人を見ると気分がスカッとするし、私はそういう人が男女問わず基本的に大好きだ。例えば部下にはパワハラをするが権力者に阿るバカより、誰にでもぶっきらぼうな男や女の方が絶対に魅力的だ。

そう彼女に伝えると、綺麗なスラブ系の顔を斜めにして、あなたは時に辛辣なところがあるわね…そう言うと意味深に微笑んだ。私もあなたは人を見る良い目があるから好き。勿論あなたの目の形は本当に綺麗だと思ってるけど。と日本語ならまず他人に言えないセリフも英語にすると言えるから不思議だ。

いつかポーランドに行きたい。ワルシャワとかと言うと、何故?何もないしベルリンに行けば?と詰め寄られた。中欧の歴史に興味があるのと返すとじゃあクラクフに行けばいいじゃんと言う。

 

 

多和田葉子さんのエッセイにクラクフの項目があり、私は彼女と旧市街を歩く姿を想像した。

けれど1人行動が大好きな私たちが国境が開こうがモデルナを2発ぶち込もうが、実際に共に石畳を仲良く歩くことは絶対にないだろう。それでも私はクラクフに行ってみたい。

 

 

 

高級食パン官界彷徨

まとまったお休みが取れたので、せっかくだから、家にずっといました。

 

ここ数日したことは、尾崎翠の一つ一つを抱きしめたくなるような、素晴らしい作品を改めて読み返し、そこに流れる澄み渡るような孤独と1930年代の日本を飛び越えたユーモアを胸いっぱいに吸い込んで感激。AmazonGoogleで血眼になりながら資料を探し、ポチり、黙々と読みつつ遺族の方々と研究者の方々の著作権料に少しでも力になりたいと願う…そんな緊急事態宣言だった。

コロナ禍での1番素晴らしい出会いは何かといったら、尾崎翠さんだ。彼女の故郷の鳥取の県立図書館には手書きの原稿や手紙があり2週間前に申し込んだら見れるらしい。コロナ前の出張で私はその隣のホールで疲労困憊しながら働いていた。あの時知っていたら絶対に図書館に行っていたし、なんなら飲み会を断って故郷鳥取巡りをしていた。出来ずじまいに外出禁止を求められる世界線を彷徨するざまになったのが残念でかなしくてたまらない。

尾崎翠さんの何が素晴らしくて心惹かれるなんてわたしが言えた口じゃないけど、精神に不調をきたしながら傑作を書いた…というような紋切り型の「女流作家」からひらひら浮上するようなユーモアと透き通った寂しさがあるところ。ヴァージニア・ウルフ、キャサリンマンスフィールドに果てしなく近いように見えて、筆を折って故郷に帰っても梨を丸齧りした詩を書いたじめじめしない爽やかさがあるところ。

 

そういうわけで、1番今私がすぐに行きたい場所は鳥取なのに、尾崎翠さんの世界を感じに旅行に来ちゃいました💓なんて言ったら国から他者から罰せられ、禁固刑になりかねない不要不急が許される世界線ではないので、私がいやいや向かったのはいつも行く美容院だ。髪型が武田鉄矢に似てきて限界だった。

 

美容院まで歩いて30分。天気も良いし歩くことにしたら、高級食パン屋が3軒もできていた!そのうち二軒は200メートルくらいしか距離が離れていない。

食パンに「高級」と付ける下品さがわりと許せない。

高級食パンはあれはもはや食パンではなく、ふわふわのあまあまの美味しくて消費税込みで1000円くらいして買ったあとビビるパン でしょうが。だいたい食パンというのはパンの中に「食」という名前がついた唯一の誇り高きパン。パン屋というオーケストラの中の低音域を担当する存在なのに、急にクロワッサンやブリオッシュ並みに持て囃され、まるでそれまでの食パンが劣っているかのように「高級」と名を変え品を変え、ビルのテナントに2016年くらいから潜り込んでいるふわふわのあまあまの美味しい千円札泥棒ではない。ふわふわあまあまパンとして改名して売り出してほしい。

第一、食パンマンはどうなる?やなせたかしの思いはどうなるのよ??高級、なんてパンにつけられて。

髪を切られている間ずっとそんなことを考えていたから、パン種みたいな髪型になった。

 

担当の美容師さんは私のオーダーを的確に読み取る。

 

 

サイコパスのリゾート〜ジェーン・オースティンのサンディトン〜

ジェーン・オースティン未完の原作、サンディトンを下敷きにしたイギリスITVのドラマ、「サンディトン」(全8話)をみた。

 

ジェーン・オースティンが亡くなる4ヶ月前まで執筆していた未完の作品をBBCの「高慢と偏見」を大ヒットに導いたオースティン映像化の申し子みたいな脚本家が映像化している。

オースティンの原作は12章で終わっており、凄く個性的な登場人物が全員出揃った…ところまでしか描いていないのでほぼオリジナル作品だ。

 

サンディトンはジェーン・オースティンの中でもそれまでの長編作品と毛色が異なっていて、ドラマと併せて原作を読んだ時に凄く驚いた。メインテーマが南イングランドのジェントリの婚活の悲喜交交ではなく、サンディトンという架空の新興リゾート地の開発だからだ。もちろんヒロインの結婚話もそのうち絡んでくる気配があるのだろうが、馬車から落馬した地主(投資家)が平和で開発や投資と縁が無さそうなイングランドの地方地主(子沢山で裕福)の家の前に不時着してしまうところからストーリーが始まる。オースティンのそれまでの作品にあまり見られなかった形での他者・異文化の強引な乱入からストーリーが始まるのは、荘園と荘園、村と荘園の人の行き来を描いてきたこれまでの作品とかなり違う。

またオースティンの作品の中で初めて、有色人種の(黒人の血を引く)西インド諸島出身の金持ちの女相続人が登場するのだ。これはヤバい。だってシャーロット・ブロンテが屋根裏のバーサ(同じく西インド諸島出身で裕福な家の娘)をまあまあ悪意あるタッチで描くよりも前に、確かサッカレーが虚栄の市で似たような金持ちの女相続人をかなり悪意のあるタッチで描くよりも前にーーオースティンはそれをやっていたことになる。シャーロット・ブロンテもサンディトンを読めば、オースティンへの印象がちょっと変わったかもしれない。

あと病気(仮病)や健康オタクの人とバカな投資家への皮肉が凄まじい。オースティン自身が病気に臥せっていた時に描かれたからか、健康を求めて馬鹿騒ぎする人物への風刺がエゲツない。あと感情小説ばかり読んでる人あたりが良いが凄まじくバカで顔は良いかま浅はかな男が出てきて面白い。

 

異例づくめのこのオースティン最後の小説をアダプテーションにするにあたって、制作側はとにかく凄く肉体的に、エキゾチックに翻案しようとしていて、ある点ではそれは成功しているものの、諸々盛り込みすぎて破綻している。残念だったのはオースティンの凄技の一つが光るウィットに富みすぎる会話や、登場人物が登場人物のことを描写する時の悪意みたいなものが、やはり原作が途中で終わっているためか、ドラマの中で出来ておらず、ストーリーラインが最後ほぼ独立してバラバラと終わるため、ヒロインのシャーロットは他の主要人物レディ・ダナムやミス・ブリアトンと1話と最終話以外全く会話もしないし、お互い話題にもしないという不自然さが生まれている。

このドラマではどこかエキゾチックで可愛い雰囲気のシャーロットをヒロインに、ヒーローを雰囲気がかなりエキゾチックな見た目で肉体派なバイロンっぽいシドニー・パーカー(サンディトン開発の弟)に据えていて、高慢と偏見のエリザベスとダーシーを下敷きにそれまでのオースティン作品のヒーローとヒロインの良いとこどりをしようとしたのだが、結果パッチワークみたいなヒーローとヒロインになってしまい、特にシドニーの行動と後半のキャラ変がうっすらサイコパスっぽくなっている。そしてなんとアンハッピーエンドだ!

でも原作を読んでも思ったのは、サンディトンの登場人物は基本超個性的でうっすらサイコパスみたいに描かれている気がする。「自称モダンで文明化された健康な人々」がきっとオースティンの晩年ごろに沢山出没したはずだ。多分というかそうあったら面白いと思うのはオースティンはサンディトンで彼女なりの近代を描こうとして、サンディトンで笑いの対象にしたのが近代化にやっきになって自分の領地の管理はすっかり忘れた投資家とか健康ブームに乗って海水をガバ飲みする人で彼らはオースティンみたいな南イングランドの常識的な人々(と言いつつも荘園のその富はマンスフィールドパークでちらつかされた奴隷貿易で成り立ちつつある)から見ると皆異常に何かに熱狂しているうっすらサイコパスに見えたのかもしれない。オースティンはこの後に来るimprovementの時代を的確に予想していていたのだろう。都市開発がテーマな点、ヒロインが田舎から都会で放り込まれる点は北と南みたいな産業小説の走りだったのかもしれないこともない。

 

 

ドラマの中でエリザベスとダーシーはジェーンの恋愛とウィッカムへの対応で互いを誤解することになるかが、それをシドニーがアンティグアで奴隷貿易をしていて差別主義者だと思いこみ、シャーロットが憤慨するプロットは凄く面白かったのに、オースティン初の黒人のキャラ、ミス・ラムのストーリーがあまりにも酷いのがめっちゃ残念だった。ただの頭のあまり良くない女の子になってしまった。

それ以外の脇役の女性キャラの怪演はすごく良くて、性暴力サバイバーとしてのミス・デナム、ミス・ブライトンの描写は興味深い。特に不安定な身分で、遺産を手にするなら文字通り何だってする凄く美人なミス・クララ・ブライトンはなかなかの悪女キャラだ。

 

海辺の新興のリゾートにいれば服を脱いで水に飛び込みたくなるし、情緒が乱れておかしなことをしでかすかもしれず、健康を求めて砂浜を歩き回るし、得体の知れない人々が集まってくる。オースティンが描いてきた平和な牧歌的な世界の端にも近代化の波は確実に押し寄せ、その波をオースティンなりに描こうとしたのかもしれない。ペンバリーのような世界ではエリザベスとダーシーは結ばれるが、サンディトンではシャーロットとシドニーは簡単には結ばれない。

 

 

未完作品も含めて映像化させられるオースティンの力に感動した。シーズン2の制作もうっすら上がっているそうだ。見てみたい気もする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シェイクスピアと朝鮮半島~愛の不時着~

「愛の不時着」を1週間かかって全部見た。

www.netflix.com

 

韓国の財閥令嬢が北朝鮮に暴風のため不時着し、北朝鮮の軍人と恋に落ち…というストーリーでめちゃくちゃ流行っている。

わたしの韓流の知識はチャングムの誓いと少女時代が流行していた頃で止まっていて、俳優さんの名前も全く知らないし普段韓流ドラマは全く見ないのだがすごく面白かった。なんでこんなに面白いのかと考えてみたところ、この作品がシェイクスピアのものすごくきちんとしたアダプテーションとして機能しているからじゃないかと思った。

シェイクスピアアダプテーションは全世界で毎年たくさん行われている。特に、舞台をシェイクスピアが生きていた時代から近現代へと舞台を変更したものは世界中のプロダクションで何パターンもやっている。世紀を3世紀くらいずらして上演するとかナチスを想像させる独裁・軍事政権下の「ハムレット」とか「ロミオとジュリエット」とかはヨーロッパのカンパニーが手垢が付くほどやっている。けれど完璧に現代を舞台にした時に、シェイクスピアがテーマにする「引き裂かれた男女」「権力をめぐる血で血を洗う争い」「劇的な死」をそのまま翻案すると、ものすごくスケールが小さくなる(もちろんスケールを小さくしても、人間の普遍の感情が描かれある程度面白いのがシェイクスピアの凄いところだが) しかしそれを北朝鮮と韓国という文字通り現在も引き裂かれた2国間が舞台になった時、荒唐無稽なお話の中にも物凄くリアリティが生まれてくる。

韓国と北朝鮮の38度線が意味するものは、可視化された分断だ。同じ民族なのに北と南が全く異なる政治形態で、境界線を越えることが犯罪になる国は、現在朝鮮半島しかないような気がする。ユン・セリとリ・ジョンヒョクの恋愛は単なる身分違いの恋だとか遠距離恋愛ではなく、モンタギュー家とキャピュレット家ばりの命がけの恋愛で、これはそのまま「ロミオとジュリエット」のお話である。(2人の身分は対等)ヒロインが父親の権力を最も受け継ぐ能力があるのにも関わらず兄弟に邪魔をされるのは「リア王」だし、都市から一人の人間か権力を握っているような隔絶された孤島(北朝鮮)に不時着した結果ドラマが生まれる…のは「テンペスト」だ。詐欺師のク・スンジュンとソ・ダンの2人がユン・セリとリ・ジョンヒョクの婚約者になって別れて互いに勘違いし…のドタバタは「から騒ぎ」や「十二夜」だし、この物語で唯一の悪役でこいついい加減にしろ!と思うあくどい堺雅人みたいな演技をするチョ・チョルガンは不遇な出自の自分を呪っていてめちゃくちゃ劇的に悪事を働くのもなんだか「リチャード3世」みたいだ。つまりシェイクスピアの喜劇、悲劇、歴史劇の全部のモチーフが散りばめられていて、凄く計算して脚本されている。韓流オタクのキム・ジュモクが韓流ドラマなら次はこんな展開になります!と言ったり耳野郎が盗聴した内容でドラマ視聴者みたいに泣いたりするのも劇中劇の役割とほぼ同じだ。それに加えセリが自分の身の上を「ロミオとジュリエット」みたいだと社宅のおばさまたちに言うシーンがあって、絶対に作り手はシェイクスピアを意識して作っているんじゃないかとわたしは確信した。現代的な観点だと荒唐無稽な話も、緊張が走る朝鮮半島を舞台にすると、スケールがほぼ変わらずアダプテーションされている。

物語が面白くなる「お約束」を散りばめたシェイクスピアアダプテーションとして物凄くしっかり機能しながら、この作品が面白いのはしっかり価値観が2020年にアップデートされているところだ。

ヒロインのセリはジュリエットみたいに「どうしてあなたは~」みたいな弱音を吐かずめちゃくちゃ能動的に行動するし、悲劇的な死を迎えてもダンは後追い自殺なんかせず誇り高さは失わずに未婚のまま芸術家として成功する未来が示唆され、それを母親が認める。(ここはすごく感動した)結婚できない人間を何だかみじめで変わっている人間に描くことに異常な執念がある日本のドラマと全く違うし、ヒロインがいつまでたっても結婚か仕事かみたいなことで全く悩んでおらず、有害な男らしさを誇示するタイプでもないリ・ジョンヒョクが新しい男性像として描かれているあたり、韓国はフェミニズム活動がしっかり市民文化に根付いているんだなと思う。中兵隊の部下4人組と耳野郎の会話の中にも下世話な女性へのジョークだとかが一切ないし、社宅村のおばさまたちは互いに文句を言いながらもここぞという時は団結する。女子校にキモイ妄想を抱いたり女性が集まればドロドロする~話が大好きなのは実は男性なのでは?と思っていたが、このドラマでそういうことはない。ダンの母親の上沼恵美子にそっくりのデパート社長も物凄く良いキャラで、とにかくものすごくジェンダーに配慮されて作られている。「ダメな私に恋してください」みたいな日本のドラマが少し前にあったが、最近の日本のドラマはどこまでも主体性のない女(自分のことをダメだと思っている)がクールなハイスペックで俺様気質のバカみたいな男と出会ってどうのこうのする話が多すぎるし好きすぎるんじゃないかと思う。

政治風刺も多分に含まれている。そもそも北朝鮮と韓国が舞台のラブコメの設定が一種の政治パロディで、映画「ジョジョ・ラビット」に近いブラック政治コメディの一つとして位置付けることもできる。セリが非武装地帯を爆走するときに、第5中隊のドラマ好きの部下が韓国ドラマをこっそり見ていて号泣していたためにセリを見逃すシーンは物凄く笑えるが、実際北朝鮮では韓国ドラマをこっそり見ていた人が処刑されるという事実を知ると全く笑えなくなってくる。また財閥一族のセリの家族は多分ナッツ姫とかあのあたりの実在の財閥の話をかなり皮肉って描いている。コメディに見せかけて政治を鋭く風刺するのはシェイクスピアはじめ様々な古典が行っていたことだ。勿論この風刺は物凄く諸刃の剣なところがあって、実際の脱北者拉致被害者の遺族がこの作品を見てどう思うかは考えなければならない点だと思う。

このドラマで一番泣けたのは韓国の人々が北朝鮮の人々を思う祈りみたいなものを要所要所で感じた点だ。貧しく不自由ても慎ましやか暮らしをしている社宅の村人たちがたくさん出てくるが、現実はもっと厳しく残酷なはずだ。おいしそうな料理がたくさん出てくるが、飢餓で苦しむ人々が後を絶えないと言われる北朝鮮でおいしそうなご飯をあんなに食べれるのかという疑問もある。多少ファンタジックでも、同じ民族が38度線を越えた先で慎ましやかに暮らしてほしい…みたいな祈りに満ちている。それと同時に実際の南北情勢はヤバそうな妹の元厳しさを増している。北朝鮮側はこのドラマに激怒しているらしいが、朝鮮戦争を忠実に描いた歴史ドラマよりこのドラマの方がよっぽど体制側には都合が悪いのだと思う。そういった点も含めて優れたシェイクスピアアダプテーション型政治風刺ラブコメディとして機能しているからこその大ヒット作品なのかなと思う。

 

Romeo and Juliet

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ロミオ&ジュリエット (字幕版)

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  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

【ネタバレ】5人目の妹~ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語~

去年からずっと公開を楽しみにしていたグレタ・ガーウィグ監督Little Women(邦題:ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語)を見た。

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ルイザ・メイ・オルコット原作若草物語の実写化だ。

若草物語を初めて読んだのは多分小学校4年生だったと思うが、何度も読み返したし、わたしは主人公ジョーみたいになりたいとずっとずっと思っていた。ジョー(ジョセフィーン)という名前の女の子が物語に登場することが衝撃だったし、癇癪持ちでユーモラスな彼女のセリフ一つ一つが大好きだった。小学生の頃のわたしの夢は作家になることだったから、彼女の生き方は憧れだった。逆を言えば、ジョー以外の姉妹、メグ、ベス、エイミーにはあまり興味、共感が持てなかった。(エイミーに至っては憎しみすら感じていた)

Little Women

映画を見て、この作品の題名がLittle WomanではなくLittle Womenである点が、すばらしさの一つであると改めて感じさせられた。原作では一章事に姉妹それぞれの教訓的エピソードが織り込まれ時間は直線に流れているが、映画では時間軸を大胆に脚色、改変していた。若草物語から続若草物語にかけてのエピソードが重層的に描かれる。そのおかげで姉妹一人一人の変化と成長、そして連帯が際立っていた。ジョーが執筆する物語、というメタ・フィクション的展開に持っていったことで、ジョーの語りという視点が生まれ、姉妹一人一人を個性豊かに、そして対等に描くことができたんじゃないかと思う。「高慢と偏見」の5姉妹ではこういう描かれ方はしていないんじゃないか。ジェーンのおっとりぶりはエリザベスの切れ者ぶりを際立てるし、あとの三姉妹はむしろ彼女の邪魔をする。別にあの作品は姉妹の連帯を描いた作品ではなかった。それに対してメグ、ジョー、ベス、エイミーの4人、そしてその周りの人々の一人一人の生き方をきちんと尊重しようとする制作側の丁寧な気配りを感じた。

この気配りは、登場人物の中で一番大胆不敵な人生を歩むのがジョーであり、小さいころの夢を犠牲を伴いながらもそのまま叶えたのはジョーただ一人だからこそ意図的に加えられたのだと思う。それはエイミーとの対比、ローリーとの対比でよく描かれていた。

エイミーとジョーは、とにかく仲が悪い。でも実は性格は一番よく似ている。芸術家になりたいと野心を持ち、そのために努力をする。自分には才能があると思っているし、主張も激しい。あの時代での「女の在り方」を率先して受け入れたのがエイミーで、拒絶して街を走ったのがジョーだったという点だ。シアーシャ・ローナンとフローレンス・ピューのヤバすぎる演技力で、2人は互いを「この子には適わないな」だと認め合った展開が胸アツすぎた。特にフローレンス・ピューのジョーへのコンプレックスや秘めた憧れをローリーに語るシーンが良すぎた。下手すれば姉から全てを奪おうとする末っ子というポジションになってしまいそうだが(昔はエイミーのことをそう思っていたし)、ジョーの書いた新しい物語を一番正しく批評したのがベア先生でなくてエイミー(誰も書かないからこそ凄いのよ→いつからあんたそんな賢くなったの?の下り)なのもめちゃくちゃ良かった。エイミーの賢さも、また賢くなってしまった理由も(メリル・ストリープ演じる叔母のコンパニオンをしている時の自分の役割を悟ってしまった時のあの表情!)しっかり描かれていたのでエイミーもめちゃくちゃいい女になっていた。ローリーに語るように自分には才能だけで世に出るほどの才能はない。叔母からもらったヨーロッパでの絵画修行をしたとしても、自分には画家になれない。でもお金は必要。結婚は経済問題の一つ。全部事実すぎて胸が苦しい。叔母がお金持ちと結婚するための嗜みとしてしか絵画を見ておらず(花嫁修業のひとつ)エイミーが顔を曇らせるのもリアルすぎて辛い。

ローリーとジョーの関係も、今までの映画とかなり違う描き方をされていた。お金持ちで人当たりもよくて頭の回転も速くてユーモラスなローリーこそ、ジョーに最もふさわしい相手だと昔は思っていた。でも原作を読み返し、映画を見てみると、ローリーは危なっかしさと弱さを持ったキャラクターで、だからこそジョーに自分の持っていないものを見て惹かれたんだと分かった。ローリーはジョーが死ぬほど行きたいと思っている大学なんかくだらないと横で平気で言ったり(これは言われたら結構ムカつくだろう)、ラテン語の授業をまともに受けなかったり、ジョーにビリヤードを咎められた時にムッとしたりする。ローリーは結構かまってちゃんなのでは?ジョーが作家になる夢は応援するけど、ジョーが自分と遊んでくれず屋根裏で必死で物書きしているのは何だか面白くない。それに多分ジョーの作品を批評できない。ローリーの中には自分がジョーのhusbandになって、しっかり男らしく振る舞わなきゃみたいな呪いがあったのだと思う。プロポーズのシーンで「家族のみんながこれを望んでるんだからイエスって言えよ!」みたいなことをティモシー・シャラメがボロボロになりながらジョーに懇願するんだけど、これ家父長制的な呪いがローリーの中もあるってことだよね?自分の好きなことだけで暮らしたい、音楽家になってみたいな、事業を継ぐのは嫌、でも努力はしない。と割と我がままばかり言うローリーの女々しさ(そこが魅力でもある)をシャラメくんは上手く演じていたと思う。イケメンなんだけどちょっと残念、みたいな。ローリーの洋服がフェミニンで、ジョーがミリタリージャケットを着て衣装を交換しあっているのも男女逆転みたいで面白かった。多分エイミーならローリーをよしよしできると思った。メグが結婚したいと心から思ったから結婚する選択もきちんと一つの選択として描いていて、ここも物凄く重要な点だと思った。メグの結婚式が一つの契機となって、姉妹たちの第二章が始まるのだし、そうじゃないと結婚vs仕事みたいな誰も幸せになれない呪いを再生産してしまうことになってしまう。わたしの母親は結婚を機に会社の通訳の仕事を辞めて専業主婦になったが、もともとわたしより明るい性格で、専業主婦になったことで自分自身が悲しくなったり後悔したことも全くないらしく、毎日楽しそうに宝塚歌劇を見ている。結婚や子育てや家事もマジで家族という株式会社の大きなプロジェクトだと思う。尊ばれるべき無数の選択の一つだ。

ジョーはもう、シアーシャ・ローナンしか在り得ないほどはまっていて、つぐないのブライオニーと全く違う演技力で、もう素晴らしすぎた。ジョーの癇癪持ちだけれど、実は繊細なところとか、生き生きとした語り方とか全てが神がかっている。ジョー、そしてオルコットは自分の欲しいものを手にした代わりに孤独を引き受けたんだと思う。人間が何かをやり遂げたい、好きなことで身を立てたいってめちゃくちゃ孤独な作業の連続だ。皆が社会的に大人っぽくちゃんとしている中で、自分だけ好きなことばっか考え、やっていくってマジでマジで孤独。

どうしようもなく孤独なの!この心の叫びは誰にでもあると思う。(女には魂もある、野心も~のセリフがオルコットの別の作品のセリフから取られているらしいのもめちゃくちゃいいですね)その孤独に効く薬は果たしてあるのだろうか?物語の中でフレデリック・ベア先生が彼女を真に理解し愛して、対等なパートナーとなり、彼女を癒した。その後ジョーが「わたしはお金のために彼女を結婚させた。著作権はわたしのもの」と強欲そうな編集者の前で言い放つ。彼女は独身なのか?と思わせておいて、プラムフィールド学園の大団円シーンになるので、本当のエピローグは宙ぶらりんのままだ。あるいはベア先生との愛は見つけたけど、小説の中のヒロインでは独身でいて欲しかったのか?あるいはベア先生は仕事上のパートナーになったのか?など解釈がつきないオチにしたのもあまりに憎すぎる~~~

 

5人目の妹になれるのか

ここまで褒めに褒めまくったので、ちょっとだけくさしてみる。

四姉妹のように、才能があって、美人で、賢い女はstory of my lifeを描くことができるじゃん。でも才能もない美人でもないわたしはmake my own wayできるのか??という問いだ。女が自分の好きなようにするためには、お金持ちか、美貌か、才能かあるいはそのどちらかが必須なのではないか、という疑問もある。「自由な中年女になりたい」という野望は何百年経った今でも難しいから。結婚が女の問題として片づけられるからしんどいのだ。結婚する、しないが女の生き方にいつまでも直結させられるのが問題だ。結婚のご予定に関して会社に聞かれるのは多分女だけだろうし。結婚したくない女も男もかなりの数いるはずだ。自由な一匹のホモサピエンスとしてただ生きたいだけの人も結構いるんじゃないのか。わたしの祖父は家庭を持つことも結婚することも誰かを愛することも全体的に向いていなかったと思う。独身だった方がはるかに自分らしく生きられる人だったからある意味で気の毒な人だった。家父長制は個人を殺す。

そういう意味で三女のベスは、才能で世の中と渡り合うことや、結婚の問題の枠を超越したちょっと特殊なキャラクターだと思った。シャイだけれど、暗いわけでもない。静かだけれど、音楽に対する確かな情熱を持っている。その才能を生かして有名になろうという気はなさそうだけれど、自分の社会の中での勤めを果たそうとしている。(慈善活動を行ってしょう紅熱にかかってしまう涙)他の姉妹に比べて目立って大きなことをしていないのに、ローレンス氏を幸せにしたりする。四姉妹の中で彼女だけがオルコットの亡くなった妹と同名なのも、彼女の一目に触れにくい美しさや気高さ、美徳をオルコットが特別視したかったためじゃないだろうか。演じたエリザ・スカンレンはベスをエミリー・ディキンソンのような女性だと思って演じたとパンフレットに書いてあった。ベスの豊かでどこまでも自由な内面、彼女もしっかりと自分の人生を歩んだ人であり、ディキンソンのように残された人々に影響を与え続けた。そういった静かな生き方を送る人は忘れられそうで忘れられない。ジョーがFor Bethと書いた断片小説がLittle Womenに変容したように、ベスは生き続ける。ベスもまた自由な一匹のホモサピエンスとして生きた人なんだと思った。あるに越したことはないけれど、目立った美貌や才能、お金がなくとも、人間は心持次第でどこまでも自由になれる。四姉妹全員に共感できるのは、グレタ・ガーウィグの優れた描き分けと脚色に他ならない。マーチ家の5人目の妹はこの作品を愛する貴女であり、わたしなのだ。

 

★音楽も美術も最高です

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若草物語 (福音館文庫 古典童話)

若草物語 (福音館文庫 古典童話)

 

 

 

続 若草物語 (角川文庫)
 

 

 

 

 

 

 

 

覚書①(暗い)

日曜からみっちり6連勤(しっかり残業帰宅してもしっかり労働しっかり雑談)をこなした結果社会へ放り投げられてしまった。仕事的にはやっと開始、光が見えてきたけれど社会では絶望したくなるような、唖然としてしまうことが暴力的に起こり続けていて、どこから考え始めたらよいのか分からなくなってしまう。

 

ブルーインパルスが飛んだ時、色々な意見が上がっていたけれど、一番怖かったのは「ごちゃごちゃ言うなよ~自分はただブルーインパルスを楽しく見たいんだよコロナでイライラしてたし楽しみたいんだよ」みたいな意見に13万いいねくらい付いてたこと。一つのことを議論したり考えたりしている人に向かって「ごちゃごちゃ言って(笑)」冷笑して差別化して、思考停止して自分だけが楽しめればいいとか言うのって日本特有のある種の暴力じゃありませんこと???今だけ金だけ自分だけ思想のHell Japanの盛り合わせ弁当でございましょうか?防衛大臣が370万円しかかかってねーしええやろって言ってたけど、お前のポケットマネーじゃないんだよな…まあポケットマネー感覚なんでしょうけど…370万円もなかなかの大金だし、倒産しそうな病院の経営を支えるとか、使い物にならなかった支給した医療品に回すとかどうして出来ないんだろうな。何のために飛ばされたかということは簡単に忘れられていって、ただ「飛んだ」事実だけが人々の中に共有されていく。こんなこと言ったら非国民とか言われる社会なんでしょうか。ブルーインパルスくん自体は悪くないです。

 

自分が小学生くらいのころに耐震偽造姉歯事件があったけど、連日報道されていて、幼心に嘘ついたら本当に面倒なことになるんだなあと思った事件だった。でも今起こってもあまり問題にならなさそう。権力と癒着さえしてたら嘘ついても何してもOKだし書類も偽造できちゃうし捕まらないもんね~ 

嘘をつかなかったり誠実な人が社会的に報われることはかなり少ない気がする(全くなくはない)。バレないよう嘘を上手くついて、人を良く見て媚びを売り、(ずる)賢く抜け目なく動いて敵である相手を完膚なきまで叩きのめす人が爆速で社会的に報われることの方が圧倒的に多い。どちらが幸せなのか?はまた別の問題だけど。学生のころまでうっすら希望的観測としてあった誠実な人間は何かしら報われるみたいな考えは、働き出してから考える余地があるなと思った。わたしは今本当に全く誠実な人間ではないし。媚びを売るのはハチャメチャに大嫌いだし、誠実な人間でありたいんだけど、どちらかというと(攻撃してきた)敵は静かに確実に完膚なきまで叩きのめすぞオーラ出しまくって今は仕事をしているし、人に何言われてもどんどん全く気にしないなかなかの害虫に仕上がってきて自分でも嫌になる。嫌な人間になっていいことなんて何一つない。けれど誠実であることが逆に馬鹿にされたり、隠すそぶりも最早なしの嘘も暴力もここまで日常の社会の景色に溶け込んでしまうと恐怖を覚える。治安は良いし、暴力事件も少なめだけど精神的暴力ではトップクラスの国。United by emotionとかまさにそう。何でもゴチャゴチャ行ってずぐ絆で一致団結しないし少子化問題にも貢献しない人間(例:わたし)は生産性のない人間ですよ!ってことなんだろう。

 

「人種差別はいけない」間違いない。だけどBlack lives matterをよその国の暴動と思って「大変だね~*1」(世界一嫌いな言葉)と背負う歴史の重みの違いはあろうが、他人事感覚で心配ぶる資格なんて誰にもない。差別する側にもされる側にもなりうる。今のわたしは自分自身が持っている無自覚の差別意識をしっかり自覚して、勉強して、考え続け、表明することしかできない。

 

ほんとは尾崎翠の全集を全部読んだ話とかあじさいが綺麗だとか好きな居酒屋がお昼に始めたお弁当がとても美味しかったこととか夜ホトトギスがマジでうるさい話をしたかったけどむりでした。次こそ…

 

 

*1:笑いながら

日記⑮

お休み。ひたすら寝てた。世界中ギスギスギスギスしてる。誠実・隣人愛・喜び(通ってた学校のモットー)でやっていくことの難しさ。誠実も隣人愛も喜びも人類にとってハードモードすぎし、手に入れることが難しすぎるからキリスト教とか宗教が生まれたのかなと思う。その時のお約束ごとの逆張りを言ってくれる人は一部から熱烈に支持されるのか。サマリア人も堕落した女も貧乏な人もダメですわ⇔隣人愛もって世界皆兄弟姉妹! 人種差別をなくそう思いやりをもって連帯していこう!⇔壁をつくろう、CHINA!みたいに。やっぱり人間の中は宗教を失っても、どこかで救世主を切望してしまうんだろうな(体制を変えていく人) 人によってそれが政治家だったり、場合によってはインフルエンサーだったりするんだろうか。

なんでそんなこと急に思ったかって言うと、もうすぐ5月が終わるからだと思う。5月はマリア様の月。マリア信仰ガチガチのカトリック教徒にとってクリスマスの次に非常に大切な月。マリア様行列と神輿の月。ロザリオのお祈りの月。自分が死んだら仏教徒として葬られる予定のくせにお経が言えず3歳から18歳までキリストに祈り捧げてたのほんまに面白すぎると思う。お経は今でも言えないけど、主の祈り(日・英) 聖母マリアへの祈り 憐みの賛歌等等は今でも言えるから色んな意味で教育の凄さを感じるなあ。

 

明日から(手伝ってくれと言われた…)わりと通常勤務っぽいので日記は一度お終いにしよう。アーメン