父が10月に死んだ。胆管癌(もどき?最終的な診断は癌だったが、はっきりと癌とはわからない)で4月に開腹手術をして、予後がどうしても良くならなくて、放射線治療とか出来ることを色々をしたけど結局助からなかった。自宅で母の作った昼食を食べて、そのまま2階の自分の部屋で心臓発作で亡くなっていた。父はもう亡くなった状態で母が発見したから、私も母も今際の瞬間に立ち会うことは出来なかった。
東京の会社でめったに電話がかかってこない母からの不在着信を見た時、帰省する度にガンジーのように痩せていく父、夏の帰省で母の事を頼むと言われた時の予感、すべてが繋がってまさかと一瞬思ったけど、すぐにショートメッセージで死んだよの通知が見た時、自分は妙に冷静だった。頭から氷水が伝ってくるような感覚だった。連休直前の金曜日の人込みの東京駅を走った時の記憶も朧気だ。スマートEXで新幹線を購入しようと思ったら、見事に満席だった。どうして?と思ったら、急に1席だけグリーン車が空いた。初めてグリーン車を自分で予約した。グリーン車は座席が広く、身長が180cmあった父のお気に入りだった。父に呼ばれたのだと思った。
これまで行ったこともなかった救急搬送先の病院での父は変わり果てた姿だった。ふっくらした丸顔はこけて、ピンク色の血色の良いおじさんは土色で黄疸にまみれていた。鎖骨は浮き出て、口も空いていた。口からは腹水から出ている泡が出ていて、髪もぼさぼさだった。泣く母親の隣で死亡届に記入した。
ここから葬式の喪主までの記憶もあまりない。やる事が湯水のように湧き出ている中で、父のために集まってくれた人に感謝しながら、朦朧としたまま、全ての手続きを私1人で行った。お通夜の音楽は父が好きだったTUBEのシーズン・イン・ザ・サン。命日は秋だけど、故人の好きな曲ならいいだろと思ってこれにした。
喪主なので、霊柩車にも乗った。斎場に入る時、聞いたこともない音がボワーッとなった。クラクションだった。火葬場のゴォゴォと人を焼く火の音がただ恐ろしかった。棺が最後に火葬へ向かう時の死体の表情、火葬が終わって骨を拾う時(何故箸を使うのか謎やな…と思っていた)の記憶も断片的だ。覚えているのは火葬場から出てきた骨の白さと、骨壷が暖かいことだった。
そのあと呆然とした母親と市役所に行き請求するだけで地味にお金がかかる出生から死没までの戸籍の取り寄せや、税理士への連絡やら、父の勤務先の連絡、入院先の大学病院へ傷病手当をもらうための書類の申請(オンラインで出来ず、今時郵送しなければいけないカス仕様)銀行への相続の連絡(銀行によって来店をしつこく求める所がある)、保険金の請求、インフラの名義切り替え、専業主婦の母を私の扶養に入れる、年金事務所への予約相談やらを繁忙期の仕事をこなしながら、兄弟姉妹もいない都内一人暮らし限界一人っ子なので調べて1人で行った。
父が亡くなってちょうど半年ほど経つが、人が1人亡くなるって、こんなに死後手続きが大変なんだ?!!!?義務教育に組み込むべきだろこれ!!!市役所は平日しかやってないし、亡くなってすぐ戸籍に反映されないし、本籍と住民票が違うと更に時間がかかる、しかも電話やオンライン窓口は平日しかやってない所もある。私の職業はシフト制だから何とか平日休みにやったが、帰省できる期間もさすがに限りがある。なんかこの辺のこと、まとめて義務教育に収めるべきでは?? 1番めんどくさいのは証券の相続手続きです。→この証券、家族に隠して父がコソコソやっていた。怨!
娘さんが東京から来てやってくださいとか窓口の人に気軽に言われたが、その時大変運の悪いことに、私の担当事業があり、その準備もしなければならず、仕方ないから実家からリモートデスクトップして仕事をこなしながらやるのもまあまあ大変だったな。そして父が亡くなる前から決まっていた1月からの海外出張もあり、社内の稟議とか、係長のサポートとか事務準備もしなければいけなかった。
さすがの高ストレスなのか、体重は7キロ痩せ、不眠症になり、会社の健康診断で白血球が増加していた。父は癌(胆管に癌らしきものが出来たという状態)で亡くなったから、自分も癌で死ぬと怖くなってきた。高い医療保険に入った方がいいのだろうか。どうだろうか…。人間、死ぬ時は死ぬか…私が死んだら、母に保険金が下りるようにしようかな…グダグダ…
こういったことを日々考えていたら、さすがに鬱っぽくなり、仕事中、ふとした瞬間に涙が出るとか、父、癌、病院というワードをネットニュースで見るだけで動悸がするとか、精神が不安定になってきた。仕事をバリバリやることで、忘れることが出来て、救われる瞬間も多々あったのだが、ふとした瞬間にゆさぶるような悲しみが来る。Excelやメールを返信してる時に頭の中がもやがかかったような状態になった。Excelのファイルを何度も何度も名前を変えて保存したり、今覚えば結構ギリギリだった。
母親も似たような不安症だから、辛いのは理解しているが、助けてほしいとか、あれを解約してほしいとか、カード会社から明細が来たとか、香典返しをしてほしいとか、五月雨式にショートメッセージが来るのも、プレッシャーだった。母親はパソコンが一切出来ず、基本的に今は社会活動から隔絶された専業主婦。分かり合えないことも多かった。そのことで、母親と大喧嘩した。(この前、無理矢理LINEは開通させた)
冬になった。父親が亡くなり2ヶ月、寒いし暗いし辛い日々。職場のデスクトップを睨みつけて、気を紛らわせる毎日。気づけば20時を回っている。
珍しく残業している職場のおじさんがふらっとやって来て、会社のお金で打合せで出張したことにして、今は大変な時期で帰省しなきゃいけないんだからそうやって旅費申請すれば大変な時期なんだから、君の新幹線代も浮くじゃないかと言われた。その瞬間、父親が東京出張に行く時に、ホテルと新幹線の安いチケットを得々プランで買って嬉しそうにしたり、飯田橋に常宿があったりしたことがその一言でスイッチが押されたように、バーっと脳内を駆け巡ってきた。もーそんなん許されるんですか?!って笑ってやり過ごしたけど、涙をこらえるのに必死だったし半分泣いていたが、バレてたと思う。何も言わずにおじさんは立ち去った。
会社で泣く女大嫌い学部首席卒業なはずなのに、危うく、12月、人前で本気で会社で号泣しそうになった。
その後、自分のイベントを何とか終了させた後、同じく父親を最近亡くした別の係長の前で、ホッとし気が緩み涙が止まらなくなったのだが、一緒に泣いてくれた。何て有難いことなのだろうか。
このおじさんは人徳の高さから、新規事業の立ち上げにジョインすることになり、3月末で退職した。マジ適当な所はおったまげの適当なのだが、業界の先輩として知識や技量が凄く、尊敬でき、趣味が合い、謎に波長が合ったし、すごくいい人で、可愛がってくれたから、いなくなるのは本当にさみしい。が、話を聞いていると、今のポジションより、思う存分能力を生かすことができるポジションへの転職だし、50代からのキャリアとしては、凄くいい選択だと思った。全体を見れるから、管理職向いてると思う。適当で飄々としているのは自分や部下を無駄なストレスから守っているのだと分かった。持ち物や芸術に対するこだわりや知識、情熱も凄く、飄々としているようで、実は好き嫌いもはっきりしてる。積極的に他者と関わるタイプでもなく、ぬるりとしている所があり、ぶっきらぼうな人ではあるのでお局からは悪く言われることが多い。
が、新しく入った人に意地悪をしたりはないし、聞いたら丁寧に教えてくれるし、見せしめ的なハラスメントは一切しないので、私は本当にありがたかった。
12月、メンタルが激下がりしていた時に、例の新幹線代のこと含め、私が実家から在宅勤務できるようにしてくれたことも踏まえ、気遣って頂きありがとうございましたと伝えた。この点は部下としてどうしても伝えたかった。当たり前でしょ、と一言帰ってきた。
流石に何も渡さないの色々悩んだが趣味に響いた個人的な贈り物も渡せて、湿っぽい感じにならず、良かった…と思ったら、最後にご飯をご一緒できて、次のポジションの話とか私の仕事の愚痴も聞いてもらえて(今思うと、共通の趣味とかもっと楽しい話題を振れば良かったと思ったのだが…。辞める人だし、いろんな職場のモヤモヤを結果聞いてもらう形になり、後で後悔…。)仕事に力を入れすぎているところがあるから、もっともっと適当でいいよと言われ、気が軽くなった。私の趣味に合わせた逆にプレゼントをもらい、恐縮の限りになってしまった。ふせんに達筆な字でぶっきらぼうながら、素敵なメッセージが書いてあった。「いつも良くしてくれてありがとう!」いやいやいな最後までどこまでも私に良くしてくれたのはあなたやん…私はただの部下で基本業務必死にこなそうとしただけ、何も良くしてなくね??!何なんやこの大人な気遣い…
この気遣いができるから50歳でスコーン!と抜擢されるんだろうな。良い感じに人に圧を与えない適当さだし…
人生は別れと出会いが交差する。
父親がこんな早く亡くなるとはさすがに私も思わなかった、ちょうど3年前、私が転職で上京した時は元気にニトリの家具を組み立てていたから。会えるうちに会っておかないと、その人は人生からいとも簡単にいなくなる。行きたい時に行きたい場所に行っておかないと、その場所も戦争で行けなくなる。
急な死に、私の心も付いていかない。