日比谷シャンテで「アン・リー/はじまりの物語」を滑り込みで見てきた。平日午前の回ではあったが、私含め観客は3名…
youtu.beシェイカー教(キリスト教の一派)の創始者であるアン・リー(映画監督ではない)の一代記である。
宗教が題材であるものの、フェミニズム映画であり、映像や美術、時代考証や音楽が緻密に構成されていて、本当に素晴らしい作品だった。
シェイカー教徒とは体を揺らしながら踊り、神は男女の形を取り、キリストの花嫁を始祖アンとして、セックスを禁じ、非暴力で禁欲的に慎み深くコミュニティを形成しようとした人たちのことである。同じくキリスト教踊念仏集団クェーカー教徒の一派とも考えられるらしい。
エンドロールにも出てきたが、現在の信徒はたったの二人で、アンの名前は歴史にほぼ忘れ去られ、シェイカーという名前は彼らが作った家具のみに残る。(踊りの激しさとは対照的に家具はシンプルでミニマムである。北欧家具にも多くの影響を与えたらしい)
アンの教えはどう考えても異端的であり、狂信的でもあるのだが、彼女は抑圧的な家父長制に疑問を抱き、ユートピアを作ろうとする。そして、実際に一代で作り上げてしまう。DVや性被害の当事者であり、同じ立場の女性を救っている。
女性の抑圧が宗教と結びついた時、とんでもないエネルギーが生まれることがある。日本だと大本教の教祖の出口なおがアンの境遇にかなり近い。貧困家庭に生まれ、夫から今でいう多産DVを受け、まともな教育を受けていない。
アンは行動力もあり地頭も良いしっかりした女性なのだが、あまり頭の良くない旦那と結婚し、望まないセックスを強いられ、子供を次々と亡くしてしまう。(お産のシーンも本当に生々しく朝ドラのヒロインのようなクリーンなお産ではない)元々信心深い女性だったのだが、子供を失ったことで、ますます宗教にのめりこんでいく。
アンはカトリックに疑問を感じ、ウォードリー協会のジェーンという女性の伝道師のいる団体に所属し、持ち前のカリスマ性を発揮していく。(旦那とはこの組織で一応出会っている)体を揺らしたり、罪の告白の際に、共同体の皆で泣き女状態でみんなで悲しむ姿に感銘を受けたアンは踊って踊って踊りまくる。実際シェイカー教徒がどんな踊りをしていたかは資料としては残っていないので、残された挿絵や資料を基に振付師が作ったコンテンポラリーダンスのパフォーマンスのようだ。
血を分けた肉親の死は人を根本的にゆさぶる力があると思う。昨年父が63歳の若さで癌で急死した時、私の人生がガラガラと音を立てて崩れた。父の死の遠因は私が勧めた手術にあり、すさまじい罪悪感と共に私はこれから生きていかなければならない絶望や、父がもう戻ってこないという恐ろしい喪失。この苦しみは一生続くと確信した。突然の死であればあるほど、ショックも悲しみもより複雑になっていく。
だから人間はラスコーに絵を描いたのだ。と父の死後の手続きをしながら思った。この恐ろしい苦しみから遺された人は救われたいと思う。そして死者にあの世でも幸せに生きてほしいという祈り。それが宗教の始まりであり、芸術の萌芽だった。
私はカトリックの女子校に12年間通っていたので、洗礼は受けていないが、思考的にえせクリスチャンなところがあり、キリスト教にはある程度親しんでいたつもりだ。
この前ポルトガルに出張に行った際に、ふとポルトの聖堂に行こうと思って、小高い丘をえっちらおっちら登っていった。

12世紀に建てられたポルトで一番古い建物は荘厳で観光地なはずなのに、意外にも人は疎らで静かだった。そこで涙が止まらなくなった。本当におかしいことだが、父が隣にいると身体で完全に理解したのだ。父に対して、親不孝な娘であったこと、嫌がる手術を勧めたこと、許してほしい、この地獄のような苦しみから私を救ってほしい。そういう気持ちがふつふつと湧き出てきた。隣の敬虔なポルトガルの若い男性も一心不乱に祈っている。きっと、900年も同じ感情をこの建物は受け止めてきて、建物に染みついた人の念が私をそうさせたのかもしれない。磔刑図のキリストが末期のころの父親と同じくやせ細り、惨めで、辛い姿だったからかもしれない。キリスト教徒でも何でもないおっさんの父が、この教会にいるとあの時そう思った。まさに宗教的な経験だった。
話が逸れたが、アンも同じようなことを18世紀のイギリスで感じていたのではないかとこの映画を見て思った。子供を亡くすという喪失、理不尽な社会、男性からの抑圧。踊っている時のアンは解放感にあふれている。同じ苦しみを抱える人たちとも出会える。生きがいとなってしまう甘美で狂信的な踊り。日本の踊念仏だって、同じだったと思う。
だからこそ宗教は恐ろしいのだとも思う。部外者から見れば3マイル離れた所まで聞こえるアンたちの踊りは狂気以外の何物でもない。ネイティブ・アメリカンや他の人々の土地を奪って「村」を作ることはどこまでも傲慢だ。アンは婚前交渉をした親戚の娘を教団から追放する。死刑ではないが、教義に外れた者を断罪する怖さがそこにある。
この映画はシェイカー教徒を断罪しようとも、称えようともせず、フラットに見つめながら、抑圧された女性が性的に消費されず、志を同じくする仲間と理想郷を作り上げた一生を丁寧に描く。アンにはベンチャー企業の女社長のような逞しさがある。
子孫を残さない教義だから、信者は減っていくが、アンはその辺はどうでも良かったのかなと思った。「全てをあるべきところに。」がモットーだから、合わない信者はどうぞ去ってくださいという感じだったのかもしれない。
宗教画のようなライティングや、衣装、そして幻想的な音楽。アマンダ・サイフリッドはマンマミーアとは全く違う鬼気迫る演技で本当に素晴らしい。アカデミー賞あげてもいいんちゃうかくらい凄い演技だ。
ここ数年で1番といって良いほどすごい映画だった。アメリカ建国250周年の年にこの映画が公開されたことも意味があったと思う。