日記⑩

出勤。気持ちのいい天気だった。でも通勤途中に軽く日光を浴びただけで身体がだるい。季節の変化に身体も心も着いていっていない。出勤して早々、せっかく仕上げた怪文書の翻訳について、怪文書自体が新たに更新されていることが判明。やり直し。うめき声を上げる。

一人一人が手を携えて~この未曾有の危機を~うんたらかんたら

 そんなことが書いてあった。「ひとり」と「手」、この単語がなぜか薄気味悪く感じる。じっと見つめていると、ある歌を思い出す。それでは聞いてください。

「一人の小さな手」

一人の小さな手 何もできないけど
それでも みんなの手と手をあわせれば
何かできる 何かできる

一人の小さな目 何も見えないけど
それでも みんなの瞳でみつめれば
何か見える 何か見える

一人の小さな声 何も言えないけど
それでも みんなの声が集まれば
何か言える 何か言える

一人で歩く道 遠くてつらいけど
それでも みんなのあしぶみ響かせば
楽しくなる 長い道も

一人の人間は とても弱いけれど
それでも みんながみんなが集まれば
強くなれる 強くなれる

それでも みんながみんなが集まれば
強くなれる 強くなれる

http://j-lyric.net/artist/a012720/l027d03.html

改めて不思議な?そして不気味な歌詞だと思う…(作曲者の方ごめんなさい個人の意見です) 

わたしが通っていた小中高はカトリック系の女子校だった。調べたら信者の方が歌ってらっしゃるみたい。(ヒットもしたらしい)だからだと思うがこの歌は小学校からずーっと歌わされ続けていて、一番嫌いな聖歌だった。けれど狂気のレベルで歌わされていたので、今でも歌詞もメロディも覚えている。この曲を心をこめて歌ってらっしゃる方もいると思うのでとても心苦しいが、わたしはこの歌の中に日本人の性質の闇みたいなものが全部詰まってると思う。特に最後のみんながみんなが集まれば~って言うところが異常に早口になるところで狂気がピークに達する。英語の歌詞が元にあって(One Man's Hands)、それはそれでヤバいのだが、まだ民主主義の香りが若干するのに対し、一人=何もできない って最初から日本語の歌詞は高らかに宣言するので恐怖しかない。特にひとりの小さな声~のところなんかは何か言うためには大勢の声を必要とするよね?みたいな同調圧力の塊みたいな考えだ。SNSで人を影から叩くのに通じる陰湿さ。全部完全に個人の歌詞解釈だけど、本当に怖い。でもよく考えたら「一人一人が~」って言葉のあとには「力を合わせ~」みたいな全体主義っぽい文脈が来ることが多い気がする特に最近。12年間女子校育ちなのは人生の壮大なネタだ(とても感謝もしている)。社会人になって仕事上小学校向けのプログラムを組むことがある時にも気づいたのだけどわたしの出身学校は結構本当に独特かつ奇妙な教育をしていたのではないか?と最近考えることが多い。特に小学校はカズオ・イシグロの「わたしを離さないで」のヘールシャムみたいな雰囲気があるように思う。そもそもあの学校に入ったのは家父長制の代弁者でもある祖父のアイデアだった。幼少期から非凡な才能を見せる親戚の子たちと違って言葉も話すのも異常に遅く、病弱だったわたしは「この子はどうせ何やっても駄目だからそこそこ聞こえのいい完全一貫校で将来ピアノの先生でもさせよう」ということであの学校にぶち込まれたのだけど、(確かに何やっても駄目だったけど!いくら大正生まれだからといって偏見に満ちた発言だと思うが)12年間(幼稚園を入れて15年間)は人格形成の基本のきを形作っているのは間違いないからいつかまたゆっくり考えたい。

6月からになったら日記つけるのやめようと思うけど在宅勤務が伸びそうなのでわからん。