自粛日記

今の世界の状況を書き留めて老後に読みたい、とふと思ったので久しぶりにブログを書いている。

 

生きているうちに自分の生きている世界が中世のようになるとは思ってもみなかった。

地震津波、不況、テロ…といった恐怖・脅威は自分がオギャアと生まれた時から同時に存在している感覚は僅かながらあったが、疫病は○○時代の話だと思っていたから。

確かに変わったこと。それは新型コロナの前までは自分は「現代日本」に一応生きていると思っていた。けれど、一世帯に2枚の恩寵布マスク、世帯主への一人10万円、三権分立を脅かす法案、といったニュースが飛び交う中で、そういえばここはまだ中世だったんだなと気づいた。

政治には疎いけれど、今の政権は「(古き良き)武家社会みたいなもの」を目指しているんじゃないか、と本気で疑ってしまう。父から息子へ権威と資本と階級が譲られていく社会をほどほどに賢い女が妻となり微笑みを浮かべて支える。そうやって生まれた家族は神聖なもので、感謝と思いやりを持ち、そして周囲との絆さえあれば日本はいつだって何があったって不死鳥のように蘇る。そういえばいつか文部科学大臣が「身の丈にあった受験を」とテレビで言っていた。彼や政府にとって教育は親から子へ受け継がれる資本の一つで、階級を再生産するものに過ぎないんだなと思い、それを親戚のジジイではなく文部科学大臣が言う令和に驚愕した。

4月の中旬から職場も在宅勤務体制になり、週に1回ほどしか通勤していない。そもそもインドア派なのでStay Homeは全く苦ではない。けれど家に留まれない職種やそもそもHomeと呼べるHomeがなかったり、家族仲が最悪だったらどうやってそこに留まり続けるんだろう。私の祖父は祖母と二人きりになるのが苦痛でたまらず、毎日猛烈に働き、残業していたという。そのおかげで彼は出世し、家族に出来る限り邪魔されないために大きな書斎を持つ家を設計した。今生きていたら彼はどうするだろうか。私は両親との仲は良いけれど、家庭が神聖で一番だという価値観はどうしても信じることができない。だから憲法改正案を読んで怖くなった。

世界恐慌がやってきたというような記事を朝から読んでしまい、真綿で首を絞められたような気持ちになる。そもそもこの記事を書いた記者ですら世界恐慌がどんなものだったのか知るわけもない。経済にも疎いが経済が悪化していることは分かる。わたしは稼働率が日本で結構高めな公共文化施設で働いていて、担当事業は全てキャンセルになった。久しぶりに通勤した際、電車の広告がかなり減っていた。五月晴れの気持ちの良い日のはずなのに、街行く人は皆しんどそうだ。文化施設で3密を避けるのは極めて難しい。というか文明って3密からそもそも始まっていたのではなかったけ。感染症が歴史にどんな影響を与えたかなんて本で何度も読んだけど、いざ自分の前に降りかかると足がすくんでしまう。結局は机上の空論だった。そういえばバッタの大群が押し寄せているらしい。関東では地震もあった。現実がヨハネの黙示録みたいになってきた。

自粛期間中は積読した本や見たかった映画とドラマや好きな音楽を聴きまくっている。若干虚しさを覚えてきたけど、今わたしがこの状況で何とか心の平穏を保てているのは、間違いなく芸術のおかげだから感謝しかない。文化施設は今は閉まっているし、今まで通りにはいかないだろうけれど、新たな生活様式を超えた芸術が生まれるんだったら、それはそれで希望が持てることだと思う。勿論、補助金は必要だけど。そういや10万円の紙すら来てないけど…と思っていたらネットで某劇作家の方が炎上していた。優秀な人だと思うし、著書も読ませていただいた。彼の論旨が全部おかしいとは思わない。だけれどどうして対立させるようなことばかり言うんだろう。ただそれが悲しかった。劇場や美術館を支える舞台機構やワイヤーやそういったもの全ては製造業の方々の努力の賜物なのに。芸術は必要か必要じゃないかという議論以前に他者に必要とされないものは存在してはいけないムードがただただ怖い。

人生なんて不要不急だと気付いたと養老孟司さんが新聞でおっしゃっていた。

www.asahi.com

不要不急の真逆の職種とも思える医者の養老孟司さんがさらりとおっしゃっていて、凄い人だなあと思う。今回の件で人生って不要不急なことしかないし、自分の存在も不要不急だと改めて実感する。そう考えたら個人的に楽になった。

個人が不要不急に個人として発言・思考して、社会に漬物石みたいに存在して、自分で機嫌を取り、静かに死んでいく、そういう世界がいい。少なくとも中世のままなのは嫌だ。次の選挙も絶対行こう、そう思って換気のために窓を開けると雨が止んでいた。(2020/5/16)